LOGIN轟音がした。
大広間の両開きの扉が、蝶番ごと内側へ弾け飛んだ。
厚さ三寸はある樫の扉だ。 それが紙のようにひしゃげて床を滑り、シャンデリアの光を跳ね返しながら、貴族たちの足元で止まった。悲鳴が上がった。
司祭が飛び退き、令嬢たちが将棋倒しのように後ずさる。
護衛騎士たちが一斉に剣を抜いた。私は、動かなかった。
動けなかったのではない。
今度は違う。――今のは、蹴り破ったのではない。
そんな粗雑な壊れ方をしていない。
あれは扉の蝶番とそういう真似ができる人間を、私は前世で数えるほどしか知らない。
砂埃の向こうから、足音がした。
一人ぶんだった。
現れたのは、若い男だった。
年の頃は二十歳前後。
長身で、肩幅が広い。 白と紺を基調にした礼服に金の飾緒。 肩から流れるマントの裏地は深紅で、動くたびに炎のように翻った。髪は白金だった。
淡く光を弾いて、後ろへ流している。そして、瞳。
蒼氷、としか言いようのない色だった。
冷たく澄んで、底が見えない。「――帝国の紋章だ」
誰かが呻いた。
「レーヴェンハルト……あれは、レーヴェンハルト帝国の」
ざわめきが、恐慌に変わった。
大陸最強の軍事国家。
我がアーデルハイド王国など、その気になれば三日で盤上から消せる相手。 その紋章を身に帯びた男が、たった一人で、卒業パーティの会場に立っている。護衛騎士が震える声を絞り出した。
「な、何者だ! 名を――」
「アルヴィス・レーヴェンハルト」
男は、歩みを止めずに答えた。
「レーヴェンハルト帝国、皇太子」
騎士の剣先が下がった。
誰も、彼を止めなかった。
止められる者が、この会場に一人もいなかった。彼は、まっすぐ歩いてきた。
不思議な歩き方だった。
私はそれを見ていて、少し遅れて理由に気づいた。――誰も見ていない。
会場には数百人がいる。
貴族が、令嬢が、騎士が、聖女候補が、そして王太子がいる。 普通、こういう場に踏み込んだ人間は、まず全体を見る。 誰が敵で誰が味方か、どこに何があるか。この男は、それをしなかった。
一度も、目を動かさなかった。
最初から、行き先が決まっていた。
「――帝国の皇太子殿下」
ユリウス様が、かろうじて声を作った。
「これは、いったい、どういう」
「話は聞いていた」
アルヴィス・レーヴェンハルトは、彼を見なかった。
「外で待たされている間、扉越しにな。実に興味深い断罪だった」
「……お、お聞きに」
「その令嬢は」
言葉が、遮った。
彼はようやく足を止めた。
私の、二歩手前で。
「――私が貰い受ける」
会場が、音を失った。
私は、この男を知らなかった。
初対面だ。
それは断言できる。
レーヴェンハルト帝国の皇太子など、
私のような小国の令嬢が顔を合わせる相手ではない。
噂は聞いたことがある。
継承権の低い生まれから兄たちを実力で退けて皇太子の座に就いた、まだ二十歳にもならない怪物。 それだけだ。その男が、私の前に立っている。
そして。
――ゆっくりと、膝をついた。
「え」
思わず声が出た。
皇太子が。
大陸最強の国の後継者が。 数百の視線の前で。 断罪されている最中の、他国の令嬢に。片膝をついて、私を見上げていた。
蒼氷の瞳が、そこにあった。
近くで見て、初めて分かった。
冷たいのは色だけだ。 その奥にあるものは、まったく冷たくなかった。熱かった。
火傷しそうなほど。
「お手を」
「……は」
「失礼」
彼は待たなかった。
私の右手を、下から掬うように取った。
騒がしい取り方ではなかった。
むしろ丁寧すぎるくらいだった。 壊れ物を扱うような手つきで、指先を包んで、持ち上げて。そして、手の甲に唇を落とした。
会場から、令嬢の誰かが小さく息を呑む音がした。
私は。
私は、何が起きているのか、まるで理解できなかった。
十七年生きてきて、男性に手を取られたことなど一度もない。
ユリウス様にすらない。 恋愛小説では何度も読んだ。 読んで、憧れて、いつかそんなことがあればいいと思っていた。こんな状況で。
こんな、私が処刑されるかどうかという場面で。
「――やっと」
顔を伏せたまま、彼が言った。
声が、少しだけ掠れていた。
「やっと、見つけた」
その言葉の意味を、私は取り損ねた。
見つけた。
何を。
誰を。「あの、皇太子殿下」
「アルヴィスで結構」
「……アルヴィス様。
恐れながら、わたくしは今、告発を受けている身にございます」「知っている」
「聞いておられたのなら、お分かりでしょう。
わたくしは――」「聞いていた」
彼は顔を上げた。
微笑んでいた。
穏やかで、完璧で、非の打ちどころのない微笑だった。その微笑のまま、彼は言った。
「一言残らず、聞いていた」
心臓が、跳ねた。
一言残らず。
それは、あの言葉も、ということだ。
数万を焼き殺した魔王です、という、あの。
「では、なぜ」
声が震えた。
みっともないほど震えた。「なぜ、そのようなことを、おっしゃるのですか」
彼は答えなかった。
代わりに、私の手を握る力が、ほんのわずかに強くなった。
そのとき、彼が視線を横へ流した。
この夜、彼が初めて私以外を見た瞬間だった。
視線の先には、白い法衣の少女がいた。
ミナ・レンフィールドは、微動だにせず彼を見返していた。
若草色の瞳が、大きく見開かれている。 恐怖ではなかった。 あれは――理解した者の顔だった。アルヴィス様が、口を開いた。
会場の誰にも届かない、けれど彼女にだけは確実に届く声で。
「よく見つけたな、勇者殿」
私は、息を止めた。
「――だが」
彼は微笑んだまま、続けた。
「彼女は、渡さない」
ミナ・レンフィールドの顔から、血の気が引いていった。
私は、その二人を交互に見ていた。
何かが起きている。
私の頭上を、私の知らない会話が通り過ぎている。勇者。
なぜ、その言葉が出てくる。
この世界に勇者はいない。 魔王がいないのと同じ理由で、いない。 御伽噺の中にしか。なのにこの男は、当たり前のようにその言葉を使った。
そして彼女は、それを聞いて、青ざめた。
私の手は、まだ彼に握られたままだった。
温かい手だった。
剣を握る人間の手だ。 指の付け根に胼胝がある。 それは私の手も同じだった。 令嬢の手には、あってはならないものだった。彼はそれに気づいているだろうか。
気づいていて、握っているのだろうか。
蒼氷の瞳が、私に戻ってきた。
熱が、そこにあった。
十五年ぶんの何かを、無理やり押し込めたような熱が。――十五年?
なぜ、そんな数字が浮かんだのか、自分でも分からなかった。
私は、掠れた声で問うた。
「あなたは」
彼は答えを待っていた。
ずっと前から、待っていたような顔をしていた。「この人は……何を、知っているの?」
翌朝は、灰色の雲が空を低く覆っていた。昨日のあの晴天が嘘のように、風は冷たく、庭の木々を重く揺らしている。私は夜明け前に目を覚まし、まだ薄暗い部屋で、旅の支度を進めていた。窓の外から聞こえるのは、風の音だけだった。「お嬢様。お支度、お手伝いいたします」シェラが部屋に入ってきた。彼女もまた、一睡もしていないような顔をしていた。「あなたも、休めていないのね」「あの者のことを考えますと、どうにも」その声には、苛立ちと心配が入り混じっていた。前世からの仲間が、また一人で危険に飛び込んでいく。彼女にとっても、それは決して他人事ではないのだろう。「シェラは、ネフィリスのことが嫌い?」「――いいえ」彼女は、旅装を丁寧に整えながら、静かに答えた。「腹立たしくはございます。ですが、あの者なりの理屈は、分かってしまうのです。それが、余計に厄介で」*朝議の間に、主だった者が集まったのは、日が昇り切る前だった。卓の上には、昨夜のうちに準備された書状の束が積まれている。アーデルハイド王国への入国許可願い、聖教会への謁見申請、そして使節団の名簿。ゼルとガイル様が、夜通しで整えたものだった。「使節としての体裁は、これで整いました」ゼルが、書類を私の前に押し出した。彼の目の下には、はっきりと隈が浮かんでいる。「名目は、婚約成立の正式な報告と、両国関係の改善に向けた協議。これなら、教会も表立って拒めません」「ありがとう。よくここまで」「当然のことでございます」彼は短く答えたが、その声には、いつもの余裕がなかった。五歳の身体に、この二日の緊張は重すぎたのかもしれない。「随行者は、最小限といたします」ガイル様が続けた。「殿下、ヴィオレット様、シェラ殿、そして護衛の騎士を十名。それ以上は、かえって警戒を招きます」
翌朝は、よく晴れていた。朝の光が、宮の白い石壁に跳ね返って、廊下をまぶしいほどに照らしている。庭の木々からは、季節外れに元気な小鳥の声が、絶え間なく聞こえてきた。あまりに穏やかな朝だったせいで、私はその報せを聞いたとき、しばらく理解が追いつかなかった。「お嬢様。ネフィリスの姿が、どこにも見当たりません」シェラが私の部屋の扉を叩いたのは、朝食を済ませた直後だった。「見当たらない、というのは」「昨夜のうちに、宮を出たようです。門番も、誰一人、気づいておりません」その言葉に、私は昨夜の不安が、そのまま形を取ったのだと悟った。あれほど言葉を尽くしたつもりだったのに、届いていなかった。「部屋は」「調べました。荷物はそのままです。ただ」シェラは、一枚の紙を差し出した。粗末な紙だった。あの日、彼女の私室に置かれていたのと、同じ質の紙。「これが、寝台の上に」私はそれを受け取った。指先が、かすかに冷たくなっていくのを感じた。*流れるような、美しい筆跡だった。『魔王様へ』『先日のお言葉、確かに承りました。一人で背負うな、と。仲間と共に考えよ、と』『そのお心を、疑うつもりはございません。ですが、あたしには、どうしても待てないことがございます』『村が焼かれました。次は、また別の村でしょう。そのたびに、魔王様は苦しまれる。あたしは、それを見ていることが、できません』『ですから、根を断ちに参ります』その一文で、私の指が止まった。『バルドウィン大司教。あの方さえいなくなれば、この争いの多くは、収まるはずです』『魔王様の御手を汚さぬために。あたしが、参ります』『どうか、お怒りにならないでくださいませ。これは、裏切りではございません。あたしなりの、忠誠でございます』そして、最後の一行。『ネフィリス』私は、そ
庭園でのあの日から、さらに数日が過ぎた。ネフィリスは宮での日々に、少しずつ馴染んでいた。シェラやゼルとの連携の仕組みも、細部が固まりつつある。あの告白以来、彼の表情には、以前より柔らかなものが増えていた。廊下ですれ違う侍女たちにも、気さくに声をかけるようになっていた。けれど、その平穏は長くは続かなかった。「殿下。南部より急報が」朝議の場に、ガイル様が青ざめた顔で駆け込んできた。手にした書状の端が、彼の手の震えを、そのまま伝えているようだった。「教会派の民兵が、国境沿いの村を一つ、焼き払いました」私は思わず立ち上がった。椅子が、後ろに大きく激しく音を立てて傾いた。「焼き払った、というのは」「帝国側に通商の便宜を図っていた村です。見せしめとして狙われたと思われます。死者は幸い出ておりませんが、村人たちは家を失いました」アルヴィス様の表情が硬くなった。円卓の上に置かれた地図を、彼の指先が、強く押さえつけている。「――我々への明確な挑発だな」「はい。ですが、こちらから手を出せば相手の思う壺かと」朝議の間に重い沈黙が落ちた。円卓を囲む誰もが、視線を落としたまま動かなかった。窓から差す朝の光さえ、いつもより硬く、部屋を照らしているように感じられた。私は拳を握りしめた。方針は変わらない。先に手を出さない。けれど、目の前で村が焼かれたという事実の重さに、その原則を貫くことの苦しさを、改めて噛み締めていた。焼け出された人々の顔を、私はまだ知らない。それでも、その痛みだけは、はっきりと想像できた。その様子を、部屋の隅でネフィリスが黙って見ていた。彼の表情からは、いつもの朗らかさが消えていた。朝議の後、私は廊下でネフィリスに呼び止められた。「魔王様。少し、よろしいでしょうか」その声は、いつもの柔
宮に戻ってから一週間が過ぎた。ネフィリスはまだ正式な役目こそ持たないものの、日々宮に通ってくるようになっていた。シェラやゼルとの打ち合わせを重ね、少しずつ仕組み作りが進んでいる。廊下ですれ違う侍女たちも、もう彼の姿に驚かなくなっていた。その日の午後、私は彼と二人、庭園で茶の時間を過ごしていた。アルヴィス様は執務で席を外しており、いつもの取り繕った男性口調も、今日はあまり必要なかったらしい。木漏れ日が、卓の上に、揺れる模様を落としていた。「――それで殿下がそうお答えになったんだけど、あたし思わず言葉に詰まっちゃって」ネフィリスは身振り手振りを交えながら、楽しそうに話していた。「本当に、あの御方は、どこまでもお優しくて」その語り口を、私はしばらく黙って聞いていた。風が庭木の葉を、さらさらと揺らしている。彼の表情は、初めて出会った日とは、まるで別人のように和らいでいた。「ネフィリス」「はい、何でしょう」「聞いてもいいかしら。あなたの話し方について」彼の手が、一瞬、止まった。カップを持ち上げかけた指先が、宙で静止する。「――やっぱり、気になりますよね」その声に微かな緊張が滲んだ。先ほどまでの朗らかさが、すっと影を潜めるのが見えた。「気になる、というより」私は言葉を選んだ。「初めて会ったときの、あの騎士のような話し方と、今の話し方。どちらも、あなたなのだと思うけれど。今の方が、ずっと自然に見えるの」ネフィリスは少し驚いたような顔をした。「――お気を悪くなさいませんか」「まさか」私ははっきりと答えた。「不思議には思うけれど、悪いとは少しも思っていないわ」彼はしばらく俯いていた。膝の上で、指先が、何かを確かめるように動いている。やがて、ゆっくりと口を開いた。「前世で、あた
宮に戻って三日が過ぎた。ネフィリスはまだ正式な役目を持たないまま、宮の一角に部屋を与えられていた。小さな部屋だったが、彼はそこを丁寧に整えていた。窓辺には、いつの間にか、南部の野草らしき花が一輪、水差しに活けられていた。その日、シェラとゼルが彼の部屋を訪ねると聞いて、私も同席することにした。三人の元四天王が顔を合わせるのは、あの街道での再会以来、初めてのことだった。「ネフィリス様」シェラが深く一礼した。その所作は、いつもと変わらず丁寧で、隙のないものだった。「前世からの仲間として、お話がございます」ネフィリスは警戒するように、じっと彼女を見た。「何のお話でしょう」「今後、独断で動くことは控えていただきたいのです」シェラは静かに続けた。彼女の口調は穏やかだったが、その奥には、譲れない一線を守ろうとする意志が滲んでいた。「何かあれば、まずわたくしたちに相談してください。あなた一人の判断ではなく、皆で考えるべきです」「――それは、少し違うのではないでしょうか」ネフィリスの声が低くなった。「相談してから動いていたら、間に合わないこともあるのではございませんか」その問いかけには、単なる反発ではない、実務的な鋭さがあった。「だからこそ、日頃から連携を」シェラが言いかけると、ネフィリスは遮った。「連携、連携と、簡単に仰いますけど」彼の声に、初めて棘が混じった。眉間に、微かな皺が刻まれている。「シェラ様も、ゼル様も。宮の中で、殿下や魔王様の近くにいらっしゃる。だからこそ、見えなくなっているものがあるのではございませんか」「見えなくなっている」私は思わず口を挟んだ。窓から差し込む光が、三人の間に、静かな緊張を照らし出していた。「はい」ネフィリスは私を見た。「お二人は、宮の政治に深く関わってい
宮に戻る馬車の中、私はネフィリスと向き合っていた。アルヴィス様も隣に座っている。ネフィリスは、まだ時折、彼を盗み見ては頬を赤らめていた。窓の外では、夕暮れの光が、次第に橙から紫へと色を変えていく。「ネフィリス。あなたのこと、もっと聞かせてほしいの」私が言うと、彼は居住まいを正した。膝の上に置いた両手を、行儀よく揃えて。「――あたしの、こと」「生まれてから今までのこと。全部」彼はしばらく窓の外を見つめていた。「生まれたのは、南部の小さな村でした。畑と羊しかないような」その声は静かで、どこか懐かしむような響きを帯びていた。乾いた土の匂いと、羊の鳴き声が、遠く聞こえてくるような、そんな穏やかな語り口だった。「前世の記憶は、物心からつく前からありました。ゼル様と同じだと、さっき、聞きました」「今、あなたは何歳なのかしら」「十四になったところです」やはり、十五歳よりも若かった。私やアルヴィス様、シェラ、ドルフ様は皆、十五年前に記憶を取り戻している。そしてゼル、ネフィリスは生まれ落ちた直後、既に前世の記憶をもっていた。十五年前に一体何が──と、考えずにはいられなかったが、ネフィリスは窓の外を向いたまま言葉を続けていく。「育ての親は貧しい農夫でした。ですが、優しい人たちでした」彼は微かに笑った。「あたしが女の子みたいな言葉遣いをしても。人形遊びばかりしていても。誰も咎めませんでした」「それは」「不思議に、思われますでしょう」彼は続けた。「あたしには生まれたときから記憶も力も備わっていた。その自覚がありました。ですが、しばらくは身体の方が追いついていなかったのです」彼は、少し困ったように笑った。「前世の技術をそのまま扱うには、器が育っていなければならないようでした。魔力を練り、隠蔽や水を操るためにも、幼い身体では、す