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第5話 その令嬢は、私が貰い受ける

Author: みだん
last update publish date: 2026-08-29 04:40:52

轟音がした。

大広間の両開きの扉が、蝶番ごと内側へ弾け飛んだ。

厚さ三寸はある樫の扉だ。

それが紙のようにひしゃげて床を滑り、シャンデリアの光を跳ね返しながら、貴族たちの足元で止まった。

悲鳴が上がった。

司祭が飛び退き、令嬢たちが将棋倒しのように後ずさる。

護衛騎士たちが一斉に剣を抜いた。

私は、動かなかった。

動けなかったのではない。

今度は違う。

――今のは、蹴り破ったのではない。

そんな粗雑な壊れ方をしていない。

あれは扉の蝶番と閂かんぬきだけを的確に断って、あとは風で押し出したのだ。

人を傷つけないように、けれど誰の目にも派手に映るように。

そういう真似ができる人間を、私は前世で数えるほどしか知らない。

砂埃の向こうから、足音がした。

一人ぶんだった。

現れたのは、若い男だった。

年の頃は二十歳前後。

長身で、肩幅が広い。

白と紺を基調にした礼服に金の飾緒。

肩から流れるマントの裏地は深紅で、動くたびに炎のように翻った。

髪は白金だった。

淡く光を弾いて、後ろへ流している。

そして、瞳。

蒼氷、としか言いようのない色だった。

冷たく澄んで、底が見えない。

「――帝国の紋章だ」

誰かが呻いた。

「レーヴェンハルト……あれは、レーヴェンハルト帝国の」

ざわめきが、恐慌に変わった。

大陸最強の軍事国家。

我がアーデルハイド王国など、その気になれば三日で盤上から消せる相手。

その紋章を身に帯びた男が、たった一人で、卒業パーティの会場に立っている。

護衛騎士が震える声を絞り出した。

「な、何者だ! 名を――」

「アルヴィス・レーヴェンハルト」

男は、歩みを止めずに答えた。

「レーヴェンハルト帝国、皇太子」

騎士の剣先が下がった。

誰も、彼を止めなかった。

止められる者が、この会場に一人もいなかった。

彼は、まっすぐ歩いてきた。

不思議な歩き方だった。

私はそれを見ていて、少し遅れて理由に気づいた。

――誰も見ていない。

会場には数百人がいる。

貴族が、令嬢が、騎士が、聖女候補が、そして王太子がいる。

普通、こういう場に踏み込んだ人間は、まず全体を見る。

誰が敵で誰が味方か、どこに何があるか。

この男は、それをしなかった。

一度も、目を動かさなかった。

最初から、行き先が決まっていた。

「――帝国の皇太子殿下」

ユリウス様が、かろうじて声を作った。

「これは、いったい、どういう」

「話は聞いていた」

アルヴィス・レーヴェンハルトは、彼を見なかった。

「外で待たされている間、扉越しにな。実に興味深い断罪だった」

「……お、お聞きに」

「その令嬢は」

言葉が、遮った。

彼はようやく足を止めた。

私の、二歩手前で。

「――私が貰い受ける」

会場が、音を失った。

私は、この男を知らなかった。

初対面だ。

それは断言できる。

レーヴェンハルト帝国の皇太子など、

私のような小国の令嬢が顔を合わせる相手ではない。

噂は聞いたことがある。

継承権の低い生まれから兄たちを実力で退けて皇太子の座に就いた、まだ二十歳にもならない怪物。

それだけだ。

その男が、私の前に立っている。

そして。

――ゆっくりと、膝をついた。

「え」

思わず声が出た。

皇太子が。

大陸最強の国の後継者が。

数百の視線の前で。

断罪されている最中の、他国の令嬢に。

片膝をついて、私を見上げていた。

蒼氷の瞳が、そこにあった。

近くで見て、初めて分かった。

冷たいのは色だけだ。

その奥にあるものは、まったく冷たくなかった。

熱かった。

火傷しそうなほど。

「お手を」

「……は」

「失礼」

彼は待たなかった。

私の右手を、下から掬うように取った。

騒がしい取り方ではなかった。

むしろ丁寧すぎるくらいだった。

壊れ物を扱うような手つきで、指先を包んで、持ち上げて。

そして、手の甲に唇を落とした。

会場から、令嬢の誰かが小さく息を呑む音がした。

私は。

私は、何が起きているのか、まるで理解できなかった。

十七年生きてきて、男性に手を取られたことなど一度もない。

ユリウス様にすらない。

恋愛小説では何度も読んだ。

読んで、憧れて、いつかそんなことがあればいいと思っていた。

こんな状況で。

こんな、私が処刑されるかどうかという場面で。

「――やっと」

顔を伏せたまま、彼が言った。

声が、少しだけ掠れていた。

「やっと、見つけた」

その言葉の意味を、私は取り損ねた。

見つけた。

何を。

誰を。

「あの、皇太子殿下」

「アルヴィスで結構」

「……アルヴィス様。

恐れながら、わたくしは今、告発を受けている身にございます」

「知っている」

「聞いておられたのなら、お分かりでしょう。

わたくしは――」

「聞いていた」

彼は顔を上げた。

微笑んでいた。

穏やかで、完璧で、非の打ちどころのない微笑だった。

その微笑のまま、彼は言った。

「一言残らず、聞いていた」

心臓が、跳ねた。

一言残らず。

それは、あの言葉も、ということだ。

数万を焼き殺した魔王です、という、あの。

「では、なぜ」

声が震えた。

みっともないほど震えた。

「なぜ、そのようなことを、おっしゃるのですか」

彼は答えなかった。

代わりに、私の手を握る力が、ほんのわずかに強くなった。

そのとき、彼が視線を横へ流した。

この夜、彼が初めて私以外を見た瞬間だった。

視線の先には、白い法衣の少女がいた。

ミナ・レンフィールドは、微動だにせず彼を見返していた。

若草色の瞳が、大きく見開かれている。

恐怖ではなかった。

あれは――理解した者の顔だった。

アルヴィス様が、口を開いた。

会場の誰にも届かない、けれど彼女にだけは確実に届く声で。

「よく見つけたな、勇者殿」

私は、息を止めた。

「――だが」

彼は微笑んだまま、続けた。

「彼女は、渡さない」

ミナ・レンフィールドの顔から、血の気が引いていった。

私は、その二人を交互に見ていた。

何かが起きている。

私の頭上を、私の知らない会話が通り過ぎている。

勇者。

なぜ、その言葉が出てくる。

この世界に勇者はいない。

魔王がいないのと同じ理由で、いない。

御伽噺の中にしか。

なのにこの男は、当たり前のようにその言葉を使った。

そして彼女は、それを聞いて、青ざめた。

私の手は、まだ彼に握られたままだった。

温かい手だった。

剣を握る人間の手だ。

指の付け根に胼胝がある。

それは私の手も同じだった。

令嬢の手には、あってはならないものだった。

彼はそれに気づいているだろうか。

気づいていて、握っているのだろうか。

蒼氷の瞳が、私に戻ってきた。

熱が、そこにあった。

十五年ぶんの何かを、無理やり押し込めたような熱が。

――十五年?

なぜ、そんな数字が浮かんだのか、自分でも分からなかった。

私は、掠れた声で問うた。

「あなたは」

彼は答えを待っていた。

ずっと前から、待っていたような顔をしていた。

「この人は……何を、知っているの?」

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